「本質が存在を含むものってなんだろう?」
そんなこと急に聞かれても困ってしまうかもしれない。
私がそんな困ったことを考え始めたのはこの文章を読んでからだった。
定義一 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。
スピノザ, エチカ(上), 岩波文庫
これは17世紀の哲学者スピノザが書いたエチカという本の冒頭の文だ。
正直に言って、この文を最初に読んだとき、私には何を言っているのかが全く理解できなかった。
その後、様々なスピノザの入門書を読んで、少しづつ意味を理解してきたので、この記事ではこの文の意味について自分なりに考えてみたいと思う。
1.文を分析してみる
まずはこの文になにが書いているのかを見ていくのだが、この文はラテン語の原文を訳したものなので、誤解が無いように一緒にラテン語も見ていこうと思う。
(当然私はラテン語が分からないのでGeminiさんにラテン語の意味を教えてもらっています。)
定義一 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。
DEFINITIONES I. Per causam sui intelligo id cujus essentia involvit existentiam sive id cujus natura non potest concipi nisi existens.【日本語】スピノザ, エチカ(上), 岩波文庫
【ラテン語】THE LATIN LIBRARY, https://www.thelatinlibrary.com/spinoza.ethica1.html
この文章を簡単な式にするとこうなる。
(自己原因)=(その本質が存在を含むもの)=(その本性が存在するとしか考えられえないもの)
(causam sui)= (id cujus essentia involvit existentiam)=(id cujus natura non potest concipi nisi existens)
※「sive」はラテン語の接続詞で、ここでは「言い換えれば」、「すなわち」といった意味で使われているようなので、「=」で表しました。
この文章は「自己原因(causam sui)」という概念を定義しているようで、それに対して2通りの説明がされている。
・その本質が存在を含むもの(id cujus essentia involvit existentiam)
・その本性が存在するとしか考えられえないもの(id cujus natura non potest concipi nisi existens)
それぞれの説明の中身を見ていこう。
説明①:その本質が存在を含むもの(id cujus essentia involvit existentiam)
まず、この文章は「あるもの(id)」について語っている。
なので、理解しやすいように「あるもの(id)」に、具体的なものを当てはめてみることにする。例えば「富士山」を当てはめて考えてみよう。
その本質が存在を含む富士山。
・その本質:cujus essentia
・存在を含む:involvit existentiam
読んでも全然分からない。
具体的な言葉を入れても全然分からない。
そもそも「その本質が存在を含む(cujus essentia involvit existentiam)」というのはどういう意味なのだろうか。
一旦あきらめて、次の説明文に進もう。
もしかしたら、スピノザもこれだけじゃわかりにくいと思って、2通りの説明を用意したのかもしれないし。
説明②:その本性が存在するとしか考えられえないもの(id cujus natura non potest concipi nisi existens)
この文も「あるもの(id)」について語っていて、それはさっきの文と同じ。というわけで、再び「あるもの(id)」に「富士山」を当てはめて考えてみよう。
その本性が存在するとしか考えられえない富士山。
・その本性:cujus natura
・存在するとしか:nisi existens
・考えられえない:non potest concipi
先ほどよりは少しは意味がとりやすい文ではないだろうか。
まず、「その本性(cujus natura)」とは「富士山の本性」のことである。
そして、ここがややこしい部分だと思うのだが、この文章は「富士山の本性」が存在するとか、存在しないとか言っているわけではない。
「富士山の本性」が「存在するとしか考えられえない」という性質を持っているという意味なのである。
例えば、2025年現在も富士山は山梨県と静岡県の間に存在している。しかし、沖縄県には存在しない。つまり、私は富士山が(沖縄県に)存在しないと考えることができる。これは「存在するとしか考えられえない」という性質を持っているという話と矛盾する。
つまり富士山は「その本性が存在するとしか考えられえないもの」、言い換えれば「自己原因」ではないのだ。
そんなとんちみたいな考え方でいいんだろうかと思うかもしれないが、この考え方で最後まで考えた後にこれで良かったのかどうかを判断してほしい。
ここまでをまとめると、こんな感じになる。
「自己原因(causam sui)」=「その本性が存在するとしか考えられえないもの(id cujus natura non potest concipi nisi existens)」=「存在しないと考えられることができないもの」
この解釈を踏まえると、先ほど解読をあきらめた、「その本質が存在を含むもの(id cujus essentia involvit existentiam)」は「その本質が存在を含んでいるゆえに、存在しないと考えられることができないもの」というふうに理解できるかもしれない。
2.存在しないと考えられることができないものとは何か?
ここからは「自己原因(causam sui)」というのが「存在しないと考えられることができないもの」だとして、具体的にはそれはどういうものなのかについて考えてみる。
猫は今私の目の前には存在しない。
私は50年前には存在しない。
地球は100億年前には存在しない。
つまり、猫も私も地球も自己原因ではない。
この文章を見て、私はあることに気が付いた。
存在するかどうかは、時間的、空間的に決まっている。
そうであるならば、自己原因とは、全ての時間と全ての空間を占めるものでなければならないだろう。
なぜならば、一部の時間や一部の空間を占めていなければ、その空間やその時間には存在しないと考えることができるからだ。
つまり、自己原因とは「時空」、「世界」、「宇宙」のような「考えうる全てを含むもの」なものだ。
ちなみにスピノザはこの後のパートで、「実体 = 自己原因」、「神 = 実体」という形で、神が唯一の自己原因であることを示す。
定理七 実体の本性には存在することが属する。
証明 実体は他の物から産出されることができない(前定理の系により)。ゆえにそれは自己原因である。
(中略)
定理一一 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する。
スピノザ, エチカ(上), 岩波文庫
まとめ
今回はスピノザのエチカの冒頭の文を見てみました。
その結果、「自己原因」とは「存在しないと考えられることができないもの」であり、「考えうるすべてを含むもの」である、ということになりました。
皆さんがこの解釈に納得できたかはわかりませんが、私はある程度スピノザの意図をつかんでいるのではないかと思います。
今後もこういう哲学書の一文を時間をかけて読むみたいなことは、やっていきたいと思っているので、また見ていただけると喜びます。
ここまで見てくださりありがとうございました。